羊の群れ

 その昔 “馬を駆って旅をしよう”と思いモンゴルの遊牧民のゲルに二週間くらいお世話になった事があります。(“現地の人と仲良くなって馬を手に入れよう”作戦の一環でした。結局 その年は干ばつが酷く、馬に食べさせる草がないよ。と言われて馬での旅は諦めました。)

昼間は暇だったので(まあ、一日中なんですけど…)よく遊牧民の子供たちと一緒にひつじの放牧にでかけました。数百頭はいるひつじのなかに一頭だけオスのヤギが混じっていたので『なんで一匹だけヤギがいるの?』とアイガ=8歳女の子に聞くと『ひつじを操り易いから』みたいな返答。(いや、モンゴル語全然できてないのでたぶんなんですけれどね。でも、言葉は通じなくても その時はたいていわかりあってた気がします。旅の底力です。)

 

 ひつじという家畜は主体性がない動物で、群れの中にリーダー的な存在もいないらしいです。だから群れは意思も意思決定力も持たず、まとまってあちへふらふらこっちへふらふら、ただ前の奴のお尻についていくだけなんです。たとえ、おおかみに襲われてもどうしてよいかわからずオロオロしながら食べられちゃうらしいです。

足元に餌(草)さえあればそれで幸せ。なにも考えない。ただ前のお尻について行くだけ。群れがどこに向かっているかも考えない。ついていくだけ。

一方 ヤギ(特にオスのリーダー)は気が強く、独立心も強い。だから、ひつじの群れに一頭のヤギを入れて彼をリーダーにして、群れ全体を制御するらしいです。ひつじはヤギのお尻について行くだけだからヤギさえ制御しておけば良いと言う事ですね。

 

この話を聞いた時 だからキリスト教では『迷える子羊』って言うのか。と、合点がいきました。

 

近頃 日本人はひつじなんだな と思うようになりました。餌さえ食べていられたら幸せ。なにも考えない。前の人のお尻について行けばいいだけ。それで安心。群れがどこに向かっているのかも知らない。群れからはぐれさえしなければ大丈夫。リーダーが誰かも知らないしなにも考えない。

じぶんの頭で考える事を放棄してしまった家畜みたいな民族。

 

キリスト教ではヤギは悪魔の化身です。

家畜を先導するヤギなど居てもらっては困るのでしょう。

なにも考えないひつじでいてくれないと(誰かが)こまるのでしょうね。