人間基準

 天気が良くて暖かいと野良仕事がはかどります。今日も朝からゴリゴリ進めました。

ケールを育てていた畝の防虫ネットを外して、支柱を抜き束ねる。ついでに蔓豆の支柱も外す。枯れた雑草をハンマーナイフモアでガシガシと砕く。ついでに向かいの畑の葉っぱ野菜を育てていた畝の雑草も砕く。

フト手を止めて、考える。

『こっちは、刈らなくてもいいんじゃないかな?』と、思いました。

りんもく舎の畑は草生栽培と言って、雑草と野菜を一緒に育てています。別に雑草を刈るのが面倒臭くてそうしている訳ではなくて、雑草が生える事で土を肥沃にして、野菜が勝手に育つ環境を育てているのです。

草刈りをするとはスッキリした気分になります。刈り揃えられた芝生が美しく感じるように、コンクリートで固められた川の護岸に秩序を感じるように、掃除した部屋に安堵を感じるように、人は整えられた環境に安心感と満足感を得ます。

自然農を志している僕にも、そう言う人間ならではの感覚がない訳ではありません。野菜が負けないように雑草の制御をしなければならない時にも、やり過ぎないように意識的に気をつけています。

調和のとれた自然は、パッと見 複雑にカオスのように見えるものです。本当の意味では、整っているのだけれど、人の目にはそうは見えません。

葉っぱ野菜を育てていた畝には、来年はナス科野菜を植える予定です。植え付けらは5月の下旬。だから別にいま草を刈っておく必要はありません。むしろ、やさしい冬草が土を覆うことで環境は安定して、土壌生物の棲みやすい状態を保ってくれます。

刈り揃えた草に満足する僕の感情よりも安定した状態で循環させておくほうが野菜にとっても良いはずです。

人の感覚は疑ってかからなきゃいけない。いつも、そう言い聞かせているのに自分本意になっておりました。