自分のため

 暖かな冬で雪が少ない。道路には積雪はなく田畑のうえには申し訳程度に30cmくらいの雪が乗っかっている。少なすぎる。

冬の貯蔵野菜は粗方出荷を終え暇な時間が増える。暇な時間が増えると頭ばかりが動き心身のバランスが悪くなる。毎年冬は憂鬱な季節で鬱っぽくなってしまう。エネルギーの体内暴走。これじゃあイカンと東京の出荷先に挨拶へ行き、淡路の友人の所へ猪猟の手伝いに行ったりしていた。

そんな折、町内の大工の友人から“ゆうちゃん、古民家改修の仕事手伝ってくれない?”と声をかけてもらった。ありがたい。仕事の内容は、解体とか片付けとかの雑用全般である。技術はないけれど身体はそこそこ動くからうってつけである。

現場で一緒に働くのは、これまた友人の大工さんです。彼が木組みや木工などの専門分野を、ぼくが土壁を壊したり廃棄物を仕分けたり。お互いに黙々と働きつつ時折取り留めもなく世間話をする。お昼休憩は近くにある親方の家でご飯を食べる。三人でご飯を食べながら社会のことやこれからのことを話し合う。同じ目線で感覚で世界を捉えている仲間との会話はおもしろく、興味も尽きない。ふたりとも誠実で前向きだなぁ。

会話のなかで時々“社会のため”だとか“未来のため”だとか“ひとのため”ってワードがでてくる。

東京の取引先の方からも言われたっけ“ひとのために働けば活力が湧いてくる”と。

ぼくは“だれかのため”に働いたことがない。全部が自分のためなのである。少なくともひとのためには働かない。言葉のアヤなのかもしれないけれど、誰かのためってのがすきじゃない。ひとのためにならなければ止めてしまうの?そんなに軽い気持ちじゃないとおもってる。全部が自分のためにやっているっておもってる。ひとの考えはわからない。自分の考えならわかってる。ひとの気持ちはわからない。自分の気持なら目玉飛び出るくらいわかってる。ひとの心はわからない。自分の心なら時々わからなくもあるけれど、だいたいわかってる。じぶんはじぶんでしかない。どんなに足掻いても他人にはなれない。自分がまわりと共にあり影響しあえるならうれしい。それをひとは“ひとのため”と言うのかもしれない。

出てくる言葉が違うだけで、おなじことを言っているのかもしれない。