自然の姿

 自然ってなんだろう?

農家になってまいにち田畑で過ごすようになり、そこからうまれる農作物を販売して生計をたてている。りんもく舎が日々やっている農のかたちをひとに伝えるとき、すこし言葉に詰まってしまう。おおきな枠では有機栽培農家なのだけれども、ちっぽけなプライドが邪魔をして、ただの有機栽培ではないのだよ、と相手に伝えたい欲求が顔を出す。でも、一言で簡単に伝えられくらい農の世界は浅くはない。仕方なく“自然農寄りの有機栽培”とか言ったりしていました。けれども自然農って単語にも正直違和感がありました。(ホントに面倒くさい奴だ)

田畑は自然そのままの原野ではないし、お米や野菜は野生種ではなく、ひとの手で改良された栽培種なのです。その上 ひとの意思で種を蒔き苗を植える。不自然な場所で不自然ないのちを不自然に育てる。農業はどこまでいっても自然にはなれない。なのに“自然農”だなんて大きなかおで言ってしまっている。

そもそも“自然”ってなんなのか?すらぼくにはわからない。

そんな想いを抱いたまま自然の定義をかんがえ続けていました。種を蒔き苗を植えつちを触り、春をよろこびと共に迎え夏の暑さにうんざりし秋の収穫を祝い冬の寒さに凍える。たくさんの歓喜たくさんの挫折をたくさんの時のながれのなかで経験し乗り越えながらかんがえ続けました。

循環こそが自然なのではないか?

はじめて農に触れたその日から無意識下で感じていた答えが、ジグソーパズルのピースがひとつずつピタリとはまるような感覚で埋められてゆきます。命は循環を続けます。野菜を含めた植物が命のスタートで動物は他の命を引き継ぐことでしか、その命を持続することができません。命は命を受け取ることで循環を続けます。では?植物の命は、なにによってはじまるのか?植物は、太陽のひかりからエネルギーを得て、無から有を生み出します。

月は地球のまわりを回ります。地球はそれ自体が回転をし太陽のまわりを回ります。太陽は天の川銀河をまわり、銀河系は宇宙を回ります。大気は循環し海流も循環をします。水は水蒸気となり空へと昇り氷となって地に降りまた水になります。かたちを変えながら循環を続けます。陽子は原子核を回り、子は親から産まれ、そのバトンを子へと引き継ぎます。命は命を引き継ぎ、次の命へと変化します。

循環こそが自然の本質で、自然とは循環するもの、なのではないか。

循環する世界のなかで、ひとつだけ循環を断ち切るモノ、止めてしまうモノがあります。それがひと(の欲)なのです。

100点満点ではないけれど、りんもく舎の畑や田んぼは、循環のなかにあることを目指し続けてきました。たくさん欲しい訳じゃない。立派な野菜が欲しい訳じゃない。甘い野菜が欲しい訳じゃない。りんもく舎は“ずっとずっと欲しい”とおもい続けてきました。それもある意味では、りんもく舎の欲のかたちなのです。

ずっとずっとこの星の上で生き続けてゆきたいから、循環のなかにある農を目指しています。たとえそれが人間社会のなかで受け入れられないとしても、この農を止めるつもりはありません。