都会と自然

 朝晩の気温が一段と下がり肌寒さを感じる今日この頃です。秋冬野菜の播種、植え付けもだいたい終わりました。収穫も一日おきになり、だいぶ日々の生活に余裕がでてきました。25日頃からは稲刈りが始まります。

 

 先日、知り合いのお寺へご飯を貰いに行きました。家族全員で出掛けたかったのですが僕以外は風邪気味だったので一人で行ってきました。何人かの友人達と集まってタコスパーティー。食後、友人の副住職と宗教についての話をしました。

『宗教っていったいなんだ?』そんな根本的な質問から始まり『どうして?真理なのに解釈の違いが生まれ、分派が起き、互いの正統性を巡って争いが起こるのか?』『寺院や教会にランクがあって、宝物や豪奢な衣服で威厳を得ようとするのか?』

そんな話を幾つかしました。納得できそうな答えもあれば、こじつけ、保身的だなぁと思う返答もありました。坊主だって生身のにんげんなのだから日々矛盾と格闘しているのでしょう。

そんな話のなかで『なるほどなぁ』と思った話。

元々、原始宗教はアミニズム(精霊崇拝)からスタートしています。神道(国家神道とは別の)の八百万神などは、草や木や石や虫や獣など、この世のありとあらゆるモノには神が宿っているとする考え方です。

アミニズムには教義がなく、指導者や開祖もいない。狩猟採集民や原始農民などは『日々食べ物を得て生き延びる』事がすべてだったから自然と生が密接に関わっていた。だから自然発生的に『自然を敬う=すべてのモノに神が宿っている』とする考えに至ります。

ところが生命維持以上の食料が手に入り始めると富の貯蓄が起き、自然と切り離された都市に生きる人たちが生まれました。都市に住む人たちには『根本的、経験的な自然への畏怖』がなく、基準とするべき指針がありません。そこで教義と言う形が発生した。と言う話でした。

おもしろいなぁ、と思いました。

いまの世の中は毎日仏壇に手を合わせる事もなく、食事に対して『(命を)いただきます。』と言わなくなったり、生活に根差した宗教感覚が昔に比べてすごく薄くなったように思います。

それで幸せに近づいたのかと言うと『どうなんでしょう?』依るべきモノのない不安感が世の中に充満しているようにも感じます。

まぁ、僕も無宗教に近い人種だと思います。けれど、ひとよりも土をいじっているだけ『そこに神を感じる』事はあります。

なんだか、なにが言いたいのだかよくわからなくなってしまいました。すんません。